微光で微動

何考えてんのかわからん人がたくさん集まっているところ

広〜いスーパー

村関係の集まり

その場にいるだけで涙が出てきそうになる。

光に向かって一生懸命助けを叫ぶけど

何も変わらない。

遠く遠くにあるみたい。僕だけ見える幻みたい。

月光浴

昨日は満月だった。

寝る前に台所の掃き出し窓から見た中庭が、月明かりで青白く冷たそうに光っていて、ぞくっとしたのを覚えている。

真夜中に、その月を眺めているかい?ってメッセージが届いていた。不思議で不気味だよって。

気がついたのは朝だったけど、真夜中にメッセージが届いていたことが嬉しくて、今日は一日穏やかな気持ちで過ごすことができた。

月の光には浄化作用があるらしい。

満月の夜中に届いていたメッセージに感謝して、今夜は1日遅れの月を眺めに外に出た。

少しだけ月の光を浴びてみた。

一年前に瞑想から覚める時に見た、光の中で輝く人を思い出した。

今朝の嬉しさがまたやってきた。

お月さん、ありがとう。

マウンテンコレクター

最近、紹介されたものを見てピンときたのがこれ

これ、なんて偉そうか、、、。

立山のみくりが池を切り取ったハンカチがHPに掲載されてあった。

黒部を思い出した。薬師沢を思い出した。

途端に綺麗な水面が似合う人を思い浮かべた。

こんな素敵なものに出会えてよかったと思うことが時々ある。

肥満と心理のこととか。心理療法はプロの使える道具です。

病気や治療のための服薬が関係しないなら

肥える=食べ過ぎ

である。

食べ過ぎというのは、感覚的にお腹いっぱいになって食べ過ぎというのでなく、動いて消費したカロリーより、食べたもので得られたカロリーの方が多いという意味である。

食べ過ぎというか、カロリーオーバー。

要は、必要なカロリーが感覚として正しく捉えられなくなっているのである。動物的にはアウトである。

そして遺伝子欠損でなければ、人は食べ過ぎに気づくことのできる能力を備えている。ただ、溢れる食べ物と、色々なストレスや、添加物、生活習慣によって機能を使っていない、使えていないのである。

だから、肥えた人たちが色んな事をして、ヨガとか色々、リラックスできたとか、感覚が研ぎ澄まされたとか、マインドフルになったとか言うのを聞くけど、どれも嘘に聞こえてくる。

研ぎ澄まされた感覚なら、必要なカロリーを摂れた時点で気づくことができるはずだと思っているから。

だから、肥えるってことは、感覚は鈍いままで、研ぎ澄まされたのは勘違いなんだと思う。

言ってる人はそれに気がつくのだろうかなあ。

それから、素人が心理療法やるのは危険だと思う。練習とかいって。人がいる前で素人が人を勧誘していたのだが、なんて無責任な!と驚いた。

人の心理に入っていくのはできるけど、仕舞うのは慎重にやらないといけなあ。入ったまま、開いたままではその人は壊れちゃう。きちんと綻びなく戻さないといけない。これはプロのすること。

資格というのはそういうことができるという一定の保証である。責任を持つということである。

だから、勉強するのは殊勝なことなんだけど、素人が私の大切な人で練習するのは、親切心であってもやめて欲しい。やるのなら、勉強している同士とか、家族さんに是非お願いしたい。

親切心でやるなら、資格持った人に繋いでおくに留めて欲しい。

後十字靭帯損傷

仕事帰りのトレイルランニングを、

わりかし急にやり始めたからか、

後十字靭帯を傷めてしまった。

山の特に下り動作が負担をかけていたみたい。鍛える方法はあるということなので、とりあえずは違和感消えるまで大人しめにしておく。

自転車仕様の脚をランニング脚に変えていくこと。もう少しじっくり取り組んだ方がいいのかな。

仕事帰りのあの時間は、トレーニングでもあるけど、辛さからの解放でもあったから、とても大切な時間だったので、しばらくどうしようか悩みそう。

今日は雨天を反映したような、人の悲しさに触れることの多い1日でした。

悲しい時思い浮かべるのはいつも同じこと。より悲しくなっちゃうんだけど、こればかりはどうにもなりません。来て欲しいけど、助けは来ない。

それだけは知っている。です。

幸せについての思考。引き続き。

幸せ、嬉しい、と思った事は、3つと思ってたけど、落ち着いて思い出すと5つあった。

一番幸せだと感じたことを、家族、というか妻に伝えたことがある。

どんな気持ちでそれを聞いたのかは分からない。

いつか聞いてみようと思う。

みんな、自分の幸せって、いつ気がつくのだろうか。

数年前まで、何か幸せか

なんて考えたことがなかった。

いや、あったか、、、も。

けれども、あったとしても、

ステレオタイプなものを幸せと、

意識せずとも思っていた。

家族がいて、収入があって、家を買い、車を買い、家族仲よくて、旅をして、趣味をして、子どもを育て、穏やかに歳をとり、仕事もやりがいや達成感があり、楽しかったと死んでいく、ざっくりだけど、そんな感じ

を思っていた。

思い込んでいた。

ところが、初めて自分で気がついた幸せは、ステレオタイプなものとは異なっていた。

初めて自分で選んだと感じる幸せ。

きっとステレオタイプ側から見たら、狂っているだろう幸せ。今までの私なら選ばなかっただろうこと、それを幸せと感じてしまった。

その幸せと、以前まで疑うことすらなかった幸せほギャップを埋めるために無理をしなくちゃいけなかったんだと思う。

けど、無理せずとも、少なくともこの気持ちをわかってくれる人がいたから、なんとかやっていけると思っていた。