コミュニティナース養成講座

開催地の養父市に行ってきた。

仕事終わりに急いで急いで。仕事にやり残しがないかと気になりながらギリギリ到着。

第一回目はそんなに難しい話はなくて、でも、今までの体験や学習、日々の実践を振り返るいい機会だった。

コミュニティナース。少し前に、いや5年くらい前にやってみたいことだったなあと思い出した。やりたくないことではないが、あの時の熱量が無い。エネルギー源を失ったままだから。

それがあれば、この地のために全てを受け止めてやっていく自信があるんだけどな。

と思いながら、今はすがるしかないTJAR完走を目指して頑張るのだと言い聞かせた。

鞄の中身はたとえ家族であっても見てはならないのだとまた思った。

子供の問題解決能力

両親がコミュニケーションを取り、答えのない問題を解決しながら、話し合った様に行動をとり、振り返り、また行動する。

その姿が、子どもにとって、未来で起こってくる様々な問題に対峙するときの基本姿勢になることは予想しやすい。

パートナーとの仲がよくなるだけでなく、仲がよいことが子どもの成長にもよい影響が出てくる。

そうなると、うちの子どもたちにはかわいそうである。申し訳ない。

けどもう、そこは終わりなのである。5年かけて今ではそう思うようになってしまった。

頑張って人生ハードモードになるかもしれないが過ごしてもらうしかない。

世間ではいい夫婦の日らしい。

英会話とモノ系コンテンツについてSNSを見て思うこと

里山のガイドを英語でできたらいいなあと思って、院内の英会話教室に通たことがある。

間違ってもいいから口に出してみること。

これが大切だと学んだ。

ところで、InstagramやFacebookの英会話に関する投稿では、”〇〇が言えないと恥ずかしい”といった文字がよく目に入ってくる。

“笑われる”とか、失敗や間違いを恐れさせるような言葉が沢山。恐縮して話せなくなってしまいやしないか?と思うこと沢山。

これらは、私が学んでいた教室で教わったこととは真反対。新しい言語を失敗なしに学びたい気持ちは分かるが、むしのいい話に思う。

モノ系のコンテンツでも、失敗しない選び方とかあって、それを求める人が沢山いるということに、失敗を忌み嫌う風潮を感じる。

失敗を重ねて得られた経験から生まれる言葉や文字は、今後貴重な価値を持つんだろうなあと思った。

ひとをこけにする

義務感から行動してるのかも

って思わせるような振る舞いは

活動を続けるエネルギーを奪ってしまう。忙しくてそうなるなら、忙しくさせている他の事より、優先度が低いんだよってことを、かなり分かりやすく相手に伝えてしまう。

たとえそんな意志がなかったとしても、意思のないところに行為は生まれない。ほんとに意志がないなら、行為を少し振り返ってみてほしい。

その辺をないがしろにすると、終わりの時期は早まってしまう。

だから、早く終わらせたいならそのままいればよくって、しばらくしてたら、どんなに鈍感な人にも伝わるはず。

あぁ、辞めたいんだなって。

そして、相手をコケにするってそういう事なんだと思う。

強炭酸水

何でもかんでも炭酸たくさん封じ込めて、強力な刺激を追求したかのような炭酸水ばかりが目につくが、特に田舎のコンビニやスーパー、弱炭酸水も欲しい人はいないんだろうか。

ヨーロッパの炭酸水は微炭酸でごくごく飲める。好きなペリエとかビシーセレスタンとかゲロルシュタイナーとか。

私はこっちが好きだから、強の方は振って、気を抜いて飲んでいる。

豚汁美味しい

朝ごはんのために、昨夜から豚汁を用意した。

一生懸命。

美味しいって言ってもらえた。子どもにも大人にも。

嬉しかった。

一番嬉しかったのは、隣にいた人の美味しいだった。作ってよかった。。

片付けは思いやり

片付けるときは、次そこを使う人がなるべく困らないように、不快にならないように、そして自分が困らないように意識してます。

だから、片付ける方法があり、動かせる手足があり、時間もあるのに片付けられてないと、思いやりがないんだな、思いやってもらえてないんだなと悲しくなり、怒りを覚えることすらあります。というか、家の中だと怒りが先に来ます。

忙しいなら仕方ないと思うのでしょうが、ボランティアで忙しくして、家の中がゴッチャだと、仕方ないとは思えません。

出したものがそのまんま、いつか片付ける算段でもあるかと思いきや、ずーーっとそのまま。埃かぶっててもそのまま。

まあいっか、の積み重ねがありありと、そこにたたずんでいます。

次使う人なんかどうでもいいや、もしくはそこまで思わなくても、自分の面倒臭さを、ちょっとでも相手の不便さより優先させるその心理に、怒りを感じるのは私だけでしょうか。

ほんと、自分の目の届く範囲の家で、暮らしたいなと思う気持ちが強くなってきます。

思いやりがなくても片付けはできそうですが、共同生活を送る中で片付けないことは、思いやりの無さ、不足であると思います。ただ1人を除いてそれは私の中の許し難いポイントな様です。

食卓難民

子どもの頃から自分の部屋がない。いま住む家にある自由に使える場所は、山道具置き場である土間の一角と、ノートパソコンを置いている本棚の上のみである。

5年前リフォームした時、わたしの部屋を設計図に載せるかどうか、立ち話程度に話題になったように思うが、忘れてしまった。

空が灰色の今朝、私は食卓難民になってしまった。メインテーブルは娘たちのままごとに占領され、台所のミニテーブルを使いかけたが、妻が洗い物にやってきたので避難することになった。

わたしは、パンを載せた木の皿と、コーヒーの入った赤いカップを持ち次の食卓を探した。

埃除けで被せているランチョンマットに呼び込まれ、たどり着いたのはノートパソコンの上であった。

薄い擦りガラスの窓際にあるここは、まだこの季節、長居するには少し寒い。

それでも椅子を持ってきて食べかけると、パラパラと雨音がし始めた。

加えて窓の外から、さきほど家を訪ねてきた村の男性と、別の女性の話す声が聞こえてきた。内容は聞こえないが、今やりたくないこと上位にランキングする近所付き合いを連想させられた。わたしは、急き立てられるように食べ物を全て口に入れ、また避難を開始した。