大人数の宴会

とても苦手な大宴会。

集まる人達の中では役をしているから行ってきた。

苦手を再認識。自分から人に話しかけることはできなかった。人に関心がないんだろうか?と思ったり、自分の手を握ったり開いたりしながらそれを眺めて過ごしたり、あぁ、こんな自分を変な人に思われてるんだろかなあと思ったり。

こんな時はいつも決まって同じ人の顔が浮かんでくる。その人ならそんなこと気にしなくていいんだよって言ってくれそうな気がして。

ハンターヘラルド 14 ガスケット交換 径は12.7mm

ハンターストーブ グループのホームページを見ながら、へたったガスケットの交換をしました。

薪のもちが悪いなぁと感じており、今シーズン使い始めたころから気になってました。

交換時期の目安は、紙を挟んで扉を閉じ、その紙を引っ張った時、その紙がスッと抜けたら交換した方がよいとあり、まさにその通りの状態でした。

さて替えようと思ってみたものの取説見ても、サイトを見てもガスケットの太さと長さの情報がありませんでした。

なので、その確認から取り掛かりました。

代理店にLINEから確認できました。

覚えておきたい数字です。ヘラルド 14 のガスケット径は12.7mm、長さは170cmでした。

このへん、取説くらいには買いておいてほしいところです。

長野県の薪ストーブメンテナンスという会社の通販サイトからガスケットを2m取り寄せました。

あとはザックリとした手順に従って作業しました。

耐熱セメントを剥がすとその粉が飛び散るので、掃除機が必要でした。また、ワイヤーブラシでこびりついたセメントを落とすと、粉塵が舞うため、マスクも必要そうでした。また、ロープの断端を処理するためには、耐熱性のある幅10mm、長さ5cmほどの粘着テープも欲しいところです。

これはホームページには書かれていませんでした。

そして1番大変だったのは、ガスケット交換よりも扉の再設置でした。外すのは簡単でしたが、重たい扉を中腰で抱えたまま、中々貫通しない扉用のピンに四苦八苦しました。

2時間ほどで全工程を終了しました。

次は煙突掃除も自分でやろうと思います。

ストーブの火を消していたので家がすっかり寒くなりました。

しょうもないこと

人は意思の生き物だと思う。

人を傷つけていながら

自ら選んでやっていることを

あたかも不可抗力かのように言って

選択してないかのように言って

自分の責任を回避している人は

意思の力を信じず

同時に自分も傷つけているんだなぁと

思った。

ポテトの素顔

普段化粧をしている人が

すっぴん、その顔が美人で

ときめいてしまった

のと似ている感じで

このポテトチップスにやられた。

味のついていないポテトチップス。

材料は国産馬鈴薯と植物油。シンプルである。馬鈴薯に、遺伝子組換えでない、と書いてあるが国内のどこで栽培されたか定かでないし、植物油、は何の油なのか不明だが、美味い。

塩と安価な油で揚げられ、化学実験的に作られた調味料をまぶしたポテトチップスが溢れる中、そのギャップにやられたのかもしれない。。

かといっていつもすっぴんだとこれはまた違う話になる。

でもこのポテトチップス、家でも作れるやん!と気づいたが、しばらくはこのポテトチップスを食べてみよう。

じぶんを好きになりたい を読んで

知り合いがFBで、”自分を好きになりたい”

という本を紹介していた。

世の中にこんな本は数あれど、本好きなその知り合いが紹介していたということもあってとても読みたくなった。

住んでいる町の図書館にあるということが分かり、すぐに予約した。

わが町の図書館には、オンライン予約システムがあるのである。

そして昨日目的の本を借りてきた。

すぐに読めるとその知人に教えてもらっていたので、寝る前に読むことにした。

結論から言うと、気づきが多かったので良かった

である。

僕の自己評価の低さは、子どもの頃の過ごし方にあったのだなあと思うに至った。

小さい頃を思うと、大切にされてたけど、わりかし厳しめに育てられてきたと思っていて、ありのままでいいんだよと言われたことやそのように感じたことはなかったなあと思い出した。

泣いちゃいけない。お兄ちゃんだからしっかりしないといけない、ちゃんとしないといけない、親の言うことは聞かないといけない、定食に就かないといけないと言葉に出しはしなくても、言葉の端々や雰囲気からそう言われているように感じ取っていたなあとか、

自由にすごく憧れるのはその感じ取り方の辺が影響がしてるんやろかとか、

親の影響が社会人になるまで大きかったなあとか

勉強頑張ってたけど、自分のためやなかったのかもしれないなぁとか、

なんとなくの大学選び、職場選び、居場所選びの惰性できてたんかなあとか、

才能ないのに無理してたなあとか、

胸が痛くなるなあとか、

高校時代に入りたかった部活を反対されたのは、後々に響いてるいるなあとか、バスプロになりたいと言った時、挑戦すら出来なかったなあとか、何クソって反対されてもやるような力は養われてなかったんやなあとか、

そんな自分を、知識や理論でなくて、感性でもってとても近くで、大変なところに居たんだねっいう一言で救ってくれた人の存在の大きさ貴重さは、どうあっても代え難いもので、消すことができないんやなあとか

今からでももしかしたら、自分は変われるのかも知れないという期待を少しは持てたなあとか、

なんとなくで選ぶんやなくて、自分の好きを基準に自信を持って選んだ人や物、そして進む道なら、なんでも受け入れられるし責任取りたいと思うんやろうなあとか、

自分嫌いを、知らず知らずのうちに、丸ごと認めようとしてくれた人を通して解消しようとしていたのかなぁとか

いろんなことを思わされた。

嫌いなものはより明確に嫌いになったし、かといって今の状況を丸ごと受け入れられるかといったらそうではないんだけど。

この本、緩い感じのイラストだが、必要な人には明確さを持って侵入してくる。そんな感じの本でした。

新譜買ってみよう

カーラジオでKissFMをつけたら

Coccoが喋ってた。

新譜を出していた。

沖縄の言葉混じりで

気持ちのよい感性たっぷりの声や話し方に

天才を感じた。

Coccoを教えてくれた人みたいに

優しい気持ちにさせてくれた。

不意打ちだった。

二三味珈琲

映画 「最果てにて」

を知ってから、ずーっとずーっと気になっていたコーヒー屋さん、二三味珈琲。

今回中能登トレジャートレイルランという大会に参加したので、レース後に行ってきました。

映画のイメージを裏切らないとても居心地のよい、美味しいコーヒーが飲める、もう一度このために行きたくなる、そんなカフェでした。

りんごのタルトとオススメのシングルコーヒーを二杯いただきました。

店員さんの柔らかな雰囲気と、お冷の水が美味しかったのが印象に残りました。

焙煎所の舟小屋にも行こうか迷ったけど、お店を出た時は暗くなりかけてて、次の機会に行くことにしました。

能登半島、先端まで足を伸ばせるなら、いや、伸ばしてでも行ってみてほしい出会いでした。

優河さんのライブ

篠山rizmで明日 9/29。

あの声を直接聴けるなんて。。。

叶わなかった夢とか

朝靄の中のひんやりした風景とか

色々な事をきっと思い出すライブに

なるのかなあ。

行こうと思えたのは、自分の中ではちょっとした変化。

ミスで始まる但馬トリップ

6日は運転免許更新のため有給を取り、空いていると噂の但馬運転免許センターに向かった。

受付の9時は過ぎていたが、駐車場にはすんなり停めることができ、噂通りの空き具合(^^)

なんて思いながらセンターに入った。

遠くに制服を着たおじさんが立っており、窓口を訪ねようと更新お知らせハガキを手に持ったと同時に、おじさんの残念そうな表情か見え、

「あ〜〜」

という声が出て聞こえてきた。午前の部受付終わりかな?と思ったら、

「更新は日曜日だけだよー」

と本当に残念なお知らせだった。ハガキをよく見ると、確かにそう書いてあった。

ミスをした。

地元警察署に戻って申請してもいいし、都会のセンターに行く手が残されたが、その日の夜は但馬で野宿の予定だし、行きたくないって思って、更新期限最終日の翌々日、8日日曜日またここに来る事にした。

そこからなんとか気持ちを切り替え、駐車場を近くのスーパーに移し、有給を最大限に活用することを考えた。

青空と秋の風が吹く絶好の山日和。

滝に行くにはやや装備不足。

学校をズル休みした息子を連れており、その中で行けるところを考え、野宿は但馬高原に決め、先週トレランで行った氷ノ山に登る事にした。

近ごろ話すことか少なかった息子と話しながらサクサクっと氷ノ山を終え、

野宿用の買い出しを済まし、村岡温泉へ。

源泉掛け流しの温泉は、シンプルだけど湯のパリッとした爽やかさを存分に感じることのできるいいお湯だった。

風呂上がりに、停めていた車を擦られたので事故検分とALSOKの調査を待ち2時間をロスした。

その後向かった野宿先は強風のため焚き火は出来ず、時間もだいぶん遅かったのでテントもやめ小屋泊に。

急いでキムチ鍋を作り、締めのラーメンまで食べ、日本海に浮かぶ漁火を見て0時頃に就寝。

5時起床。軽い胃もたれの中、またヘビーなカレー飯を食べ、6時半に帰宅の途につきました。

途中モーニング滝で女郎滝を鑑賞。

好きな形です。

ここ!この折り重なるような水の流れが好きです。

但馬満喫の旅でした。

福祉ってなんだっけ?

好きな事をして

苦手なことはそれを苦手と思わずにしてくれる人にお願いして生きていこう。

という動画やブログを読んで、その言葉や態度に感じる違和感はどこからくるのだろうと思った。

明日食べるものやそれを買うお金のない暮らしをしている人、病気のために働けず、貯蓄を切り崩し治療を受けている人、制度の境に居て社会的な支援が得られない人、虐待を受けていたり、いろんな理由でうまく助けてって言えない人

そんな人たちに同じことが言えるかなあ?言えても助けになるのかな?って考えがずっとあった。

衣食足り、住まうところがあってこその言葉や態度なんじゃないかなあと。そこに夢や希望はあるが、その前提条件を持たない人を無視はしないけど視界に入れないというか、配慮に入れていないような、いくらかの身勝手感を感じてしまう。

私がそう感じるのは、そんな方から相談を受けたり聞いたりしてきたこともあるし、曲がりなりにもいろんなお手伝いをしたことがあって、どこにも求めようのない必要とされる力を身をもって感じてきたからかもしれない。

学歴のある人が、明日食べるものや寝るところが確保されている条件で発する、生きるうえで学歴は必要ないよって言うのを聞いた時のモヤモヤ感に似ている。

だから違和感を感じる。

自分ってなんだったっけな?と自分の思考やその背景について思いを巡らせている日々。

沢山の子どもたちの洗濯物の中から、干せる場所の都合上ハンガーに干せる物だけ抜いて洗濯機に放り込みながらそんなことを思った。

次は掃除機かけと布団たたみだ。