されて嫌のことを身近な人にしてしまう
どうしたらよいのか分からないし
嬉しいことしたい気持ちが消えてしまったからもうどうしようもない。
こんな時他の人は何をするのだろうか。
されて嫌のことを身近な人にしてしまう
どうしたらよいのか分からないし
嬉しいことしたい気持ちが消えてしまったからもうどうしようもない。
こんな時他の人は何をするのだろうか。
今は沢山制約があるけど
いつか思うように生きられる日まで
力を蓄え、伴走するように応援したい人がいます。
押しすぎたり引きすぎたり、力加減が分からず、傷つけてしまう事があっても、両親の次に命を与えてくれたその人を、できる限り、許される限り支えたいのです。
今はそう感じています。
手袋の落とし物を山道で見かけることがある。
ただ、その手袋はおおよそ専門店で購入されたであろうものではなく、かつ片方だけであることが多い。
アウトドアメーカーのものを見かけたことが無い。今私が欲しいOMMやレイドライトやモンテインのオーバーミトンなんかまず落ちていない。
勝手な推測だが、無くしても財布に痛くない価格と無くても困らない機能だから拾いにこないか、他人に拾われないんだろう。
厳冬期用の高価な手袋なら探すだろうし(そんなところに行く人は予備を持っているし、そもそも落とさない)、見つけた人が拾っていくだろう。
作りのいい物を買って大切に使いたいなと、山に落ちている手袋を見て思った。
ダメなものでも
好きなものは好き
あたまで分かってても一度反応してしまった身体はもう忘れられない。だって命を投げ出したんだもん。
好かれてなくても
笑顔がなくても
一線引かれても
無視されても
関心もってもらえなくなっても
僕は大好き。
あなたの全てが。嫌なところ含めて全部好き。
あなたがいないと、大切にしないといけないはずのものもただの苦痛になってしまう。
このどうしようもない僕には、どうしようもないあなたが、どうしても必要です。
身一つで寝食背負って生活する。
そのシンプルさ、自己完結の度合いが心地よい。
そして目的とするものが遠くであっても、『触れたい、見たい、感じたい』の行かなくてはならない人種である自分には、限られた時間を有効に使うために移動に速さが求められる。
となると、私にしっくりくるのはファストパッキングとなる。
身に付けるのは代用の利く、軽くて頑丈なバランスの良いものが理想である。
さらに知識はいくらあっても重くならないので、外で生きる術はなるべく沢山知っておいた方が良い。道具についても同じことが言える。
食べられる自然の恵みについては、知っておいて困ることはない。なるべく沢山知っておきたい。もし出来るなら、動物を食べる方法も沢山知っておきたい。
今の自分のやりたい生き方、山への取り組み方、それを表すのがファストパッキングという言葉である。
自分の山を探す過程でTJARのゴールも通過したい。
よく晴れた日のイワナ釣り。
少し前に訪れた時、川の流れにスッと走る黒い影を確認していた。
地区の入り口にある橋の近くから入渓し、川虫を数匹捕まえ釣り開始。
20センチほどのイワナがすぐに釣れた。一匹目かつ小さいので放流。穏やかな顔のイワナだった。
沢は明るく水は綺麗でよい天気。気分上々で遡行開始。
次のポイントでもすぐに当たりがあり、沢のすぐ脇を道路が走る環境にあって、源流釣りとは異なるあまりの簡単さに腕が上がったのかと勘違いしそうになる。
いやいや、そんなことはあり得ないと思い直しさらに上流へ。
またもや釣れる。今度は25センチ程の夕飯サイズ。しかも腹掛かり。
なんとも食いっ気のあるイワナだなぁ、こんな来やすい場所なのにスレてないのか?昨日の晴れ間はさっぱりだったのに、何が違うのか?と疑問符が湧いてきた。
とりあえず夕飯用に三匹釣れたらやめようと思い、小物は放流しながら釣り上がる。
2匹めは小さかったが針を飲まれており、命をいただいた。
一つ目の橋を越え、小さな滝壺でこれまた簡単に3匹目が釣れた。
釣りの間、近くの道路では車やバイクが何台か通り過ぎていた。気が散った。
三匹目が釣れたところで、取り敢えず沢を見るために上に行こうか迷っていたら、イワナによく似た監視員さんが一直線にやって来た。
入川料金4000円を払い、たくさん浮かんだ疑問符を解消しようと尋ねてみた。
私「簡単に釣れますが、もしかして、放流されてますか?」
イワナおじさん「養殖して沢山放流してますよ。上〜の方まで。大滝二本超えたら、そこからは天然です」
疑問は解消された。腕が上がった訳ではなく、そういうことだったのだ。
途端にイワナ釣りに虚しさが出てきた。遡行する冒険心も減り、薪を集めたり、夕飯の準備をしなくちゃと思い始め納竿した。
いつも通りイワナを捌き、生えていたワサビの葉で包んだ。一本は塩焼き、二本は焼き枯らし用。
どうやら、私はイワナ釣りは好きだが、釣ることよりも、人の手がほとんど入っていない、人の匂いの少ない、人の立てる音がしない源流、その沢の姿が好きだったのだ。そこにいれること、そこでイワナを釣ることが好きだったのだ。
魚を放流した沢でなく、イワナが自然にいることのできる沢が好きなのだ。そんなところにいるイワナは綺麗なだけでなく、顔には優しさより厳しさを感じる。
ただ、食料を得るためだけなら今回みたいなところで十分である。でも山になって沢と一体になって、そこで溶け込むようにあるためには、ここは違う場所だった。
初めて連れて行ってもらった沢で得た感覚は、自分の中でやっぱり、そして以前よりももっとはっきりと生きていた気がした。
末っ子が布団の中でボーっとしてました。
次女が母親の作った料理を「美味しそう!」って言った途端
「えー!なぁに?」って言ってすぐ起きてきましたた。
よい目覚まし掛け声。
末っ子が3歳になりました。
職場近くの公園を11周0960メートル× 11。走るのは10日ぶり。現在膝の治療中で、治療に3回通ったところで走ってみて調子を教えて欲しいと言われていたので今日は走りました。膝の違和感がやってくるのが少し遅い気がしました。
沢登りや源流釣りに行くと、時々ポイ捨てされたビールの空き缶を目にする。
滅多に人の来る所ではなく、山仕事か私と同じことをしている人が入っていると思われる所。らへん。
たまたまかしらないけど、かなりの確率、体感的には9割、それはアサヒスーパードライの空き缶である。たまたまかしらんけど。関西限定かもしれんけど。
そして、大体が人為的に潰されている。捻ったり押し潰したりして。
ポイ捨てする人には、何か欠如するものがあるのだろうけど、こんな山奥の大自然の中に来てそこでポイ捨てする人は、もっと大きな欠如がありそうである。そして、そんな人が選ぶビールはなぜかアサヒスーパードライ。
そこにはどんな関係があるのだろうか。
わずかに罪悪感を持ち合わせているのか、ご丁寧に潰してあるのがかえって気持ち悪い。
とっても暇になったら、空き缶一つ一つ写真を撮って統計を取り発表してもいいかなあ、なんて歩き疲れた夜にぼんやり思う。