僕もできるなら
同じように考え動く
美しい人と
狩猟採集生活を送りたいと思った。
完全でなくてもその割合をなるべく多くして
多くを持たずに
自然に生きて
自然に死んでいきたいと
春の沢で
改めて思った。

僕もできるなら
同じように考え動く
美しい人と
狩猟採集生活を送りたいと思った。
完全でなくてもその割合をなるべく多くして
多くを持たずに
自然に生きて
自然に死んでいきたいと
春の沢で
改めて思った。
今年は沢靴を更新しようと思う。2年前に買った今の靴、底のフェルトがだいぶんちびてきた。初めて履いた沢登りの日は、きっと一生忘れないと思う。
まだ底は使えるけど、フットワークが悪いからなのか、サイドがひっかけた跡から破れてきており、さらにインナーゲイターのネオプレーンに柔軟性が無くなってきた。引っ張って履こうとしたら伸びきってしまった。
沢登り中の靴の破壊は命とり。
大きなトラブルが起こる前に買おうと思う。
モンベル かキャラバンか秀山荘か、他にどこかあるかなあ。パタゴニアのも使えそう。
相談しようと思ったけど、自分で考えてやってみよう。この靴買う時、少し大きめを買うのよって言われたの思い出した。次は26cm買ってみよう。
今日は、戒厳令を潜り抜け、人気のないところに、夕飯のおかずを採りに行ってきた。
狙っていたコゴミがたくさん採れた。
採れたことも嬉しかったが、一緒に行った人とそこにいれることが嬉しかった。目にするものが美しく、そこにある空気が大切だと感じる気持ちが共有できたようで、嬉しかった。綺麗な沢が、穏やかになる心と相まって、さらに美しく感じられた。
ほんとに嬉しくて、帰りの車でちょっと涙が出そうになった。子たちが乗ってるからこらえたけど。
これを当たり前のことだと思ってはいけない。
今日はとても可愛い人に出会えた
雨降りだったけど、追加でタラの芽を採りに行けた
コロナでお客さん来なかったけど、仕事があった。
明日の晴れが、待ち遠しい。
今は大好きな匂いがどこからか漂ってきていて、なんだか嬉しい気分。
ある日イワナ釣りに行った。沢は、若かりし日の師匠が通い詰めた思い出の場所。
アプローチから、可愛い花に歩みを止められ、ゆったりとしたスタートに。
入渓ポイントに近づくにつれきれいな水が目立ち始め、山芍薬が生える辺りから沢の中へ。
地形図を見ながら釣り開始ポイントまでさらに進みます。
師匠の記憶では、この滝上から釣れ始めるという事だったので早速餌を落としました。
すると立派なイワナが釣れあがりました。幸先のいいスタートです。
すぐ上流で釣っていた師匠もイワナを持って笑っていました。
そこからは暫くお喋りしながら釣り上がり、バラシを挟みながら4匹釣ったところでお昼ご飯に。
沢の中に突如現れた何もない広ーい場所で昼を食べ、午後の部へ。
熊の爪痕にドキドキしながら手付かずの源流風景を堪能します。
谷が迫り、源流の色が濃くなってきた辺りから一つの棚に一匹位の頻度でイワナが現れ、27〜28センチ位の良型が釣れました。
早めに竿を納めた師匠を追いかけ、またまたバラシもしながら、良型を2匹釣って納竿。
内臓を取り出し、獲物を並べて写真に収めます。
最後は沢を詰め、転げ落ちたら谷底までのブナの斜面を這い上がります。残雪が所々にありました。
そこから林道と僅かな踏み跡残る破線道を、これもまたオリエンテーリングみたいで楽しいと話しながら下山。
花や風景を楽しみながら下っていきます。
陽が傾く中、沢と尾根をグルッと回ってスタート地点に戻ってきました。
ポツポツと家の建つ集落を抜け最後の登り坂。
春の日本の原風景を味わう、濃ゆい1日が終わりました。
今日気付いたのですが、渓流釣りは登山も沢登も釣りも楽しめて、外ご飯も沢水暮らしもできて、なんて贅沢な行為なんだろうかということです。
また山を彷徨いながら、大切な人とこんな時間を過ごしたいなと思いました。
イワナは刺身と唐揚げで、美味しくいただきました。
すごく大切な人が何かですごく悲しんでいる。その人の悲しみを思うとすごく悲しくなる。ご飯食べているんだろうか、眠れているんだろうか、体の具合は大丈夫なんだろうか、生きていけるんだろうかって。そんなにやわじゃない人なんだろうけど。
そんなに悲しい思いをさせるその何かをすごく嫌う。できることなら引き剥がしたい。
僕の持っている何かでその悲しみが少しでも和らぐなら待っている何かを全てそこに使いたい。
けれども僕はもうそれができないし、それが望まれる立場でもない。なのにその悲しさが悲しいまま伝わってくる。
何か悪いこと言ったのかも。
訪問診療に、医師に同行する看護師役で行っている。
対象には終末期の方が多く、当たり前のことだが短期間のうちにみんなお亡くなりになる。
人が亡くなることは自然なことであり、普通のことだと思っているから、自分の行動や思考、その他に影響が出てくるとは思っていなかった。
けれども、やっぱり何かが残っていたみたいだ。死の瞬間に立ち会った訳でもなく、訪問看護や、さらには家族のように患者さんの近くに寄り添っていた訳でもないのだが、何かが心の中で起こっている気がする。
うまく言葉にならないけど、今まであったものが無くなる喪失感なのか、自分の死にどこかで結びつけて感じることがあるのだろうか。
確かにこの仕事をしていない場合よりは、人の死や生に近い場所にいる。
昨日まで話をしていた人が、今日は亡くなっているということが当たり前のようにある。
あまりに急すぎて、当たり前だと思っている人の死が、そのスピードの為に、当たり前と捉えられる能力を超えた現象になっているからなのだろうか。
よくわからないままのこの今を、安心して話せる人に聞いて欲しい。そして感じることを聞かせて欲しい。
そうしないと、よくわからないこれに飲み込まれてしまいそうな気がする。
Googleで検索されたサイトをいくつか見たが、どこにも見当たらなかったので
履いてみて気がついた特徴を。
それは、社会の窓が無い事。
だから立ってトイレを済ます時、少し、もたつく。
ULに触れたお陰で、ストイックではないものの道具の軽量化を図ることに関心が高まっている。
軽量化を図る上で、調理器具の軽量化は避けては通れない気がしている。普段はガス使用なのだが、
長期山行にならなければ、アルコールストーブは十分に使えそうな気がしている。煮炊きはガスに劣るものの、軽いし故障しないし、ちゃんとお湯が沸く。フリーズドライとコーヒーで短期間なら十分凌げる。
ところが燃料となるアルコール。売ってあるのは500ml容器に入ったもの。でかいし重たい。
小分けにするのだが、そこら辺にある容器、例えば化粧水の小分け容器などにはアルコールなど揮発性の高い液体は避けてくださいという表記が多い。
化学変性に強いとされるナルゲンがあるが、田舎ではすぐに買えないし、ちょっとだけ、高い。
そこでこれまでは含嗽薬リステイン100ml容器を使っていた。薄く軽い容器は使い勝手が良いのどが、クッカーに収まらないことがネックだった。ちょっとのっぽなのである。
もう少し背の低い容器を探し続けて半年。
そして今日、立ち寄った100円均一でついに見つけた。彼らは少し目線を下げた棚に潜んでいた。
買ったのは60mlと125mlの二本。小さい方は2回から3回分のアルコールを入れてクッカー内に入れ、大きい方は予備用に。材質は厚みがあり握っても変形はほとんど無し。
久々の会心の買い物でした。
週末外泊がまた楽しくなりそうです。